先日、
『現在の1級建築士に新たな試験を受けさせて合格した人だけを「新1級建築士」と認定するなど大幅な制度見直し案を明らかにした。』
というのニュースが出たことに対しての日記をつけましたが、その後、委員会(審議会)の議事録が国土交通省から発表されたので、読んでみた。
資料も合わせて70ページ以上ある議事録でしたが、やはり自分が仕事としている世界の話でもあるので、全部目を通してみた。
すると、各マスコミが報道した内容とは随分ニュアンスが違っているのである。
ニュアンスが違うというより、かなり話を勝手に膨らませているのである。
伝言ゲームじゃあるまいし、マスコミもプロとしての意識をもってもらいたいものである。
思えば、姉歯事件が発覚した直後も、ヒューザーや木村建設、総合経営研究所が黒幕であり、姉歯氏は、弱者という立場で、偽装を強要されていたような扱いの報道であった。
特に朝日新聞(テレビ朝日)などの左翼よりのマスコミは、こういうのが大好きである。
国会議員の中には、そんな報道と姉歯氏に対する同情のような国民感情を考慮し、人気取りの材料にする者もいた。
しかし、その後の調査で、姉歯氏がほぼ自らの判断と知識不足の中で偽装を重ねていたことが分かってくる頃には、報道もほとんどなく、世間の関心も薄くなっていく。
そして今回、世の建築士全てを悪者にしたいような報道!
松本サリン事件の時も、そうであったが、報道は慎重でなければいけない。
そして、責任を持たなければいけない。
裏づけのない情報を簡単に記事してしまう記者こそ、プロ意識が欠如しているように私は思う。
簡単に耐震強度を偽装し、それを繰り返した姉歯と同じぐらいの罪である。
とにかく、そんなガセに近い拡大解釈と勝手に色付けされた報道に、私はこの1週間振り回されたバカである。
そして私はまたテポドンの報道で踊る準備はできている・・・。
昨夜、ヤフーで、
『耐震データ偽造事件を受け、国土交通省は26日、現在の1級建築士に新たな試験を受けさせて合格した人だけを「新1級建築士」と認定するなど大幅な制度見直し案を明らかにした。』
というのニュースがでていた。
「何!?」
昨年、苦労してようやく1級建築士になった私にとっては大変なニュースである。
いや、私だけではない。
おそらく全国の1級建築士の人はそのニュースを知って、そう思ったに違いない。
確かに、姉歯事件以後、建築・建設業界は世間からの信頼を失った。
再発防止のためにもなんらかの対策・政策は必要かもしれない。
ただ、今回ニュースになったこの制度見直し案は的を外しているように思えてならない。
私個人の考えではあるが、仮にこの法案が可決されれば、まだ建築業界では若い私にとっては、もう一度、毎日の仕事と平行し、寝る時間を削って資格試験の勉強をしなければいけないという苦労が苦になるというより、大幅に人数が減るであろう「新1級建築士」はチャンスである。
しかし、そんな方法でふるいにかけていいのであろうか?
年輩の1級建築士の方は、やはり私の年代の1級建築士よりも経験も知識も豊富である。
そんな力のある年輩の方が、もう一度資格試験の勉強を、仕事の合間にするというのは酷な気がしてならない。
もちろん、私のような駆け出しの者から見ても、1級建築士とは名ばかりで知識もなく、しかも歳だけとっているような、イライラさせられる人も少なくはない。
だけど、その逆に、やはりスゴイなぁと思える諸先輩の1級建築士もたくさんいるのである。
その今回の法案による「新1級建築士」の判断基準(試験方法)が実務の知識や経験に反映されたものであればいいのだが・・・
今の建築の仕事は細分化されているのが現状であり、建物の規模が大きければ大きいほどそれらはよりスペシャリストの集まりにより仕事は進み一つの建物が出来上がる。
自分の仕事分野でないことも多々ある中で、どのような判断基準(試験方法)が実務の知識や経験に反映されたものになるのか?
私は結局、実務とは違う『単なる試験』になるのではないかと思ってしまうのである。
確かに、1級建築士である以上、専門分野外なので全くわからないということは、ふさわしくない言い訳であるし、一般の方からすれば、プロなのだから知ってて当然、無知な建築士をなくす為にも、もう一度ふるいにかけるのは当然と思うかもしれない。
ただ、私が心配に思うのは、建築業界、特に設計の仕事というのは、大変ハードにも関わらず、あまり儲からない仕事なのである。
寝る間も惜しんで、より良い物を創ろうと考える仕事なのである。
良い設計事務所ほど、設計に時間をかけ、ディテールまでとことん考える。
そんな中、もう一度試験勉強に時間をさかなければいけない状況が、建築界に良い影響を与えるのか大変疑問に思うのである。
姉歯氏は、確かに知識も含め、1級建築士としてはふさわしくない人物だと思う。
しかし、姉歯事件を筆頭に、さまざまな建築・建設業界の問題は、モラルの問題の方が大きいように思うのは私だけなのだろうか?
医師や弁護士、教師その他国家資格による職業における問題も、社会人として、そして日本人としてのモラルの欠如が一番の問題だと思うのである。
今後どのようになるかはわからないが、これからも私は誠実に建築設計という仕事に向き合い取り組んでいきたいと思う。
【頭を見ればわかるだろう?】
【それは丸めたのか?それともやはり・・・】
【彼が残した不の物は本当に大きい・・・】
今、大変なニュースとなっているホリエモンと、このライブドアの問題が発覚する前に世間を騒がせていたマンションの耐震強度偽装事件。
耐震強度偽装問題では、私も建築の仕事に携わる一人として、大変に驚いた事件であった。
そして今、もっとも世間の注目を集めているライブドアの事件では、やっぱりかという思いで私はニュースや新聞をみている。
そして、この二つのニュースには、一つの大きな共通点がもっとも大切な点ではないかと私は思っている。
それは、『倫理の欠如』。
当たり前のことかもしれませんし、法を犯す行為をした時点で、そういったことが言えるかもしれません。
ただ、昔の日本人の誇りや信念といった『美しき倫理』といったものがあった場合、もっと多くの同情や声援があったかもしれないと私は思うのです。
例えば、昔の盗人には、「絶対に人を傷付けない。」・「貧しいものからは盗まない。」といったような掟が存在した。
盗みは決して善いものだとは思わないが、そういった盗人の中にもプライドがあったことが重要だと私は思う。
そういうものを我々日本人は、けっして嫌いではなく好きなのである。
だから、アニメ『ルパン三世』もファンが多く、長く愛され続けている作品なのではないだろうか?
そして、私の好きな作品『機動戦士ガンダム』のシャアというキャラクターが多くの人の心をつかまえているのではないだろうか?
耐震偽装強度問題では、私は建築の仕事をしているプロとして、『住まい』がマンションや建売住宅といった『建てる』という感覚のものから『買う』という消費感覚のものに変わってしまっている中で、更に安さ(値段)一番になってしまっている現在、プロの誇りを皆が忘れてしまっていたのではないだろうかと感じている。
ライブドアの問題では、ホリエモンの野望が単なるお金でしかないことが、このような問題になってしまったのではないだろうか?
もし本当に、彼が日本を変えたいと思っていたなら・・・
お金だけではなかったニッポン人の心。
法という正義ではなく、私たち一人一人が『倫理』という正義を考えなければいけないのではないだろうか。
昨夜、私は、今は亡き父の夢を見た。
夢に出てくる父の姿は、きまってアルバムの中の写真やビデオのような昔の親父の姿である。
夢に出てくる私自身は、今の私であったり、子供の頃の私であったりするが、親父の姿は変わらない。
年老いて、爺さんになった父を私は想像できないのだろうか?
私の父は、いつも親父なのである。
いつ見るかわからない気まぐれな夢ではあるが、父の夢を見た次の朝はなんだかタイムマシンに乗ってきた気分である。
ドラえもんの勉強机の引き出しやバックツゥーザフューチャーのデロリアンのようなものが、私にとってはフトンなのかもしれない。
そう思えば、子供の頃からフトンはタイムマシンだった。
遊び疲れて、フトンに入ってぐっすり眠れば、明日という未来がやってきていた。
子供の頃、明日になる前にフトンの中で見た夢は、また少し今見るものとは違っていたが、確かに私はフトンの中でいろんな時代を旅した後、明日になっていたように思う。
そして、時には当時好きだった娘と二人になる都合の良い夢なんかも用意していてくれていた。
また時には怖い夢を見、夢の中で腰を抜かすという経験もしたものである。
今年の夏も終わり、涼しく寝心地の良い夜も、もうすぐやってくる。
私は今日、どんな夢を見るんだろう?
押入れから出し畳の上に敷いたフトンがまた今夜タイムマシンになる・・・。
昔、と言っても私が小学生だった頃ぐらいであるから、今から20年ほど前のことなのだが、家の庭にやって来る鳥は、椋鳥(ムクドリ)や鶯(ウグイス)、目白(メジロ)にスズメといったものが多く、今ほどカラスなんてのは飛んではいなかった。
それが街の変貌とともに、目にする鳥と言えばカラスの割合が、とても多くなったような気がする。
ゴミをあさり、人に挑発または攻撃するかのような低空飛行、そして何よりその数の多さと不気味な黒色の容姿と泣き声。
私を含めた多くの人間がカラスに対して抱く感情というものも昔と比べるとずいぶんと悪いものへと変わってしまった。
童謡でも、『カ~ラ~ス~なぜ鳴くの・・・』と唄われていたことからも、今ほど嫌われていたとは思えないし、そこには情緒さえ感じられる。
そして何より、サッカーの日本代表のエンブレムには矢田ガラスが描かれているほどである。
もちろん、田んぼにカカシがいて、その対象ともなっているカラスは昔から人間にとって歓迎される動物ではないかもしれないが、今ほど嫌われていただろうか?
私は別にカラスを擁護するつもりはないが、ふとカラスの多さから目を移すと、昔は田んぼや畑であった場所に味気のない建売住宅が並んでいるのある。
今では憎ささえ感じる時もある人も少なくないであろうカラス。
都市の生活に適応できた生き物として、醜くなりながらもその都市で生きていこうとするその姿は、なんだか私たち人間に似ているようにも感じるのである。